013「隣の部屋の奥さま」


先週の続き


私は、手ぶらも何だから、近くの和菓子屋さんで水饅頭を手土産に谷川の部屋を訪れた。インターホン越しに挨拶をする。はっきりとした受け答えで、いかにも仕事のできそうな女性という感じだった。


先日、家のWi-Fiルーターが不調になったときに、電話をしたコールセンターの女性もこんな感じだったかな。きびきびとした女性を目の前にすると、ついたじろいでしまう。




扉が開くと、私が思い描いていた通りの細身できりっとした目元が特徴の女性が出てきた。要件を聞かれたが、うまく答えることのできなかった私は、とりあえず水饅頭を渡した。


「あら、ありがとう。少し上がっていきません? 一緒にどう?」


私には断る理由もなければ勇気もない。お邪魔することにした。同じアパートの同じ間取りの部屋なのに、随分と広く、そして明るく感じた。それは、温かみのある黄色ベースで部屋がまとまっているからだと、すぐにわかった。


「そこに座っていて。すぐにお茶用意しますから」


私はダイニングテーブルに腰かけた。谷川さんはキッチンでお茶を淹れている。その奥には食器棚があって、ガラス張りなので中身が見える。大きな茶碗と、それに比べて一回り小さな茶碗。前者が夫のもので、後者が彼女のものだろう。そして、キャラクターの絵が描かれた子供用の茶碗があった。整理整頓されたその中身に、私は見とれていた。まめな女性なんだろうなと思った。


しかし、不思議な違和感があるのは何故だろうか。茶碗と同様に夫と子どもの分の服もある。しかし、実在が伴わないのだ。部屋を探しても、写真の一つもない。もちろん、写真を撮らないし、飾らない家庭もあるだろう。それにしても違和感を感じざるを得ないのだ。




「どうぞ」谷川さんはお茶を差し出して、「ただの安物の茶葉だけど」

と言った。

茶葉のことなんて全然わかりませんからどうぞお気遣いなく、と私が言うと、彼女は微笑んで水饅頭を片手に、


「食べて良いかしら?」


と尋ねてきた。私は、もちろん、と答えた。

右手に持った菓子を左手で添えながら食べる姿は非常に上品で、育ちの良さが伺えた。私も食べようと、ひと口目を口に入れた瞬間に、


「おいしい?」


彼女に訊かれた。正直まだ咀嚼もしていないし、味はわからない。けれど、よくわからない圧力で肯定せざるを得なかった。


「うちの子がね。これ大好きなのよ」

「そうなんですか。すみません、二つしか買ってきませんで。そうだ、今から買ってきましょうか」

「ううん。大丈夫。わたしが買ってくるからここにいてくれないかしら?」


家主のいない家で留守番をするのは憚られたが、断ることもできず、私は留守を任された。何もすることなく暫くの時間が過ぎた。お茶を飲んだせいか、尿意に襲われた。お手洗いを借りるのは彼女が帰宅してからにしようと思ったが、どうしても我慢することができず、申し訳ないが借りることにした。彼女が帰宅したら、勝手に借りてしまったことを説明しようと思った。




間取りが同じだから、お手洗いへ迷うことなく行くことができた。お手洗いへ向かう途中の廊下に脱衣所がある。これも我が家と同じだ。


脱衣所から、異様な臭いがする。今まで嗅いだことのない臭い。得も言われぬ臭い。


脱衣所の扉を開けた瞬間、ビニール袋を持った谷川さんが帰ってきた。


「見た?」


まだ。私はそうひと言返した。


「そう。じゃあ、戻りましょう」


私は怖くてたまらなかった。今すぐこの部屋を出たい。その気持ちでいっぱいだった。戻ろうとした私の背中に声がかかった。


「水羊羹。うちの子が大好きだったのよ。犯人はそれを知っていて、まだ幼いあの子を公園に連れて行って、刺し殺したの」


振り返ることのできない私。それをよそに彼女は続ける。


「お墓に入れることができないのよ。そうしたら、本当にお別れになっちゃいそうな気がして。まだ浴槽の中にいるの。うちの子」


吐きそうになる私。


「気が狂ってるって思う? 主人にもそう言われたの。それでケンカになって、気が狂ってるのはアンタのほうよって、包丁で一突きで息しなくなっちゃったの、あの人。情けない。けれど、今は幸せだと思うわ。親子仲良くお風呂に入っているんだもの」


彼女はビニール袋の中から、包丁を取り出した。


「二人と約束したの。犯人を見つけたら殺して……そうしたら、私もすぐにお風呂に入るわって。毎晩毎晩、お経唱えながら約束したの。息子の命日にあなたが来た。しかも一年前と同じように水羊羹を持って」


このままだと、殺される。そう思った私は強行突破を試みた。


「私が今日買ってきたのは、水羊羹ではなく、水饅頭です!!」




私はすぐにアパートを引っ越した。谷川さんのことは警察に通報していない。変な恨みを買っても怖いからだ。彼女はきっと今も、浴槽の中にいる夫と子どもと、三人で暮らしているのだろう。




水饅頭も、水羊羹も、あの日以来食べていない。




この物語はフィクションです。



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