お笑い芸人を目指して、上京した。
大学への進学を望む親の意向を蹴って、上京した。
父親に反対されて、殴り合いのケンカになった。私はその夜、家を出て行こうとキャリーケースに荷物を詰め込んでいると、扉をノックする音が聞こえた。その優しい音から、ノックをしているのは、父ではなく母だとすぐにわかった。扉を開けると、母は泣きながら「行きなさい」とだけ言って、私の掌に六万円を握らせた。
「ごめんなさい。これが今の我が家にできる精一杯なの」
私は母を抱きしめた。この時のことを思い返すと、私は「母」ではなく、「母のかたちをした女性」を抱きしめていたのだと想う。
上京した私は都内の小さな古いアパートに住んだ。入居の際には、古いアパートであるから、壁がとても薄いため騒音等に気をつけるよう管理人に忠告された。確かに、暮らしてみると、上の階の住人の足音や、どこからか聞こえる話し声も聞こえたが、私は特に気にすることなく過ごすことができた。
ある夜、私は寒さで目が覚めた。部屋の暖房の電源がタイマー機能で切れていたのだ。スイッチを入れ直し、もう一度床につこうとすると、隣の部屋からお経が聞こえる。
「そんな夜もある」
訳のわからないセリフを自分に言い聞かせて、再び眠りにつこうとするが、できない。結局、そのまま朝を迎えた。
このような日が続いてはたまらないと考え、私は管理人へ連絡を入れた。すると、
「谷川さんのことですか……。何度もこちらからは連絡しているのですが、本人に思い当たる節がないようで、私たちもどうすることもできないんですよ」
この問題は、どうやら自分で解決するしかないようだ。私は谷川の部屋を訪れた。
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